わたしのこと

流されるだけの人生を変えたい転勤族の妻、スキル0から在宅ワークで道を切り開く

はじめまして、はつみんです!

このたびは私のブログにお立ち寄りくださり、ありがとうございます。

私は、夫の転勤で引越しを繰り返す、いわゆる「転勤族の妻(転妻)」です。

数年おき、不定期に引越しがあるため思うように働けず、夫の収入に頼る暮らし。

自分の収入がないと何を買うにもつい遠慮してしまい、「自分のために自由にお金を使うこと」が難しくなるものです。

車もなく、遠出をするには夫に頼るしかない。

知り合いができても、引越しですべてリセット。

そんな日々を過ごすうちに、なんとなく自分のことを後回しにするのが当たり前になっていました。

でも、40代に入り、子どもに手がかからなくなるにつれて、自分の時間が少しずつ増えていることに気づいたんです。

そろそろ、また働きたい!でも、いつ出るかわからない転勤辞令のことを考えると、外に働きに出るのは難しい……。

そんなとき、インスタで「在宅ワーク」という言葉を見つけました。

場所を選ばずに働けるなんて、引越しのたびに仕事をあきらめてきた私にとって、まさに理想の働き方です!

しかも私はおうちが大好き

ただ住むだけではなく、心地よい暮らしを追求したくて収納系の資格をとるくらい、家やインテリアへのこだわりを持っているんです。

在宅ワークなら私の暮らしにぴったりかも!

とワクワクした気持ちになりました。

このブログでは、Webスキルゼロの40代転勤族の妻が、在宅ワークでゼロから収入をつくり、月収30万円を目指すまでの挑戦を綴ります。

  • 在宅ワークって本当にできるの?
  • 40代からでも、新しい働き方を見つけてみたい!
  • 転勤が多くても、自分らしく働ける方法はあるのかな?

そんな疑問や不安を持つ方へ、私が経験した失敗や成功をリアルにお伝えしていきます。

同じ悩みを持つ転妻さんが一歩踏み出すきっかけになればうれしいです!

まずは、私がどんな道を歩んできたのか、これまでのストーリーをお話ししたいと思います。

よろしければ、最後までお読みくださいね。

基本情報

名前:はつみん

生まれ年:1981年

家族:私、夫、息子(小学生)

趣味:インテリア、ガーデニング、ミニチュア集め

資格:整理収納アドバイザー、北欧式整理収納プランナー

ほめられるのがうれしくて、頑張り続けた幼少期

「はつみんは頑張り屋さんだね!」

幼いころ、習い事に励むわたしにかけられた言葉。

両親が喜んでくれるのがうれしくて、「わたし、がんばる!」といつも張り切っていました。

両親や親戚、近所の人や先生。

私が頑張れば頑張るほど、周りの大人たちが笑顔になる。

「ほめられること=わたしの存在価値」

幼いながらも、そんな風に思っていたのかもしれません。

「できる子」と思われるのは最高に気持ちがいいものです。

ちなみに、当時の夢は「先生になること」。

幼稚園の先生からはじまり、ピアノの先生や小学校の先生など、教えるものは変わっても「先生」への夢はぶれなかったのを覚えています。

親の顔色をうかがうようになった小学生時代

小学生になってもほめられたい気持ちは変わらず。

いろいろなことを頑張るのが当たり前の子どもでした。

勉強も習い事も、一生懸命やればやるほど「頑張り屋さんだね!」とほめてもらえる。

「次はもっと頑張ろう!」

ほめられることが私のいちばんの原動力でした。

でも、その「頑張る理由」は、だんだんと変わっていったのです。

父と母の間にできた深い溝

幼稚園のころ弟が生まれてから、なんとなく家の中の雰囲気が変わったことに気づきました。

両親のケンカが増え、今までのような心地よくて穏やかな空気が少しずつ消えていったのです。

ちょっと大きくなってから、母に聞いたことなのですが

ある日、仕事が忙しく家にいる時間が少なかった父に「仕事と家族、どっちが大切なの?」と問いかけたそうです。

そのとき、父は迷うことなく「仕事」と答えたそう。

当時の母より年齢を重ねた今だからわかることですが、父にとっては「家族を守るために仕事を頑張る」という意味だったのかもしれません。

でも、母にとっては違いました。

「仕事のほうが大事なんだ」とショックを受けた母は、それ以来、私や弟の前で父の悪口を言うように……。

最初は、大好きな父のことを悪く言われるのが悲しくてたまりませんでした。

でも、何度も聞かされるうちに、少しずつ「父は悪い人なんだ」と思うようになってしまったのです。

子どもだった私は、母の言葉をそのまま信じ、いつの間にか父のことを嫌うようになっていました。

「習わせてあげているんだからできて当たり前」

私は幼いころから、ピアノやスイミング、英語など、さまざまな習い事をしていました。

「頑張り屋さん」と言われるのがうれしくて、どれも一生懸命取り組んでいました。

でも、あるとき気づいたのです。

私、どれも自分からやりたいって言ったことないな……

母が選んだ習い事を、母の期待通りにこなす。

それが私の日常でした。

母はよくこう言っていました。

「習わせてあげてるんだから、できて当たり前」

ピアノの発表会では、他の子と比べられました。

「〇〇ちゃん(主に同い年の子)が弾いた曲より、もっと難しい曲をやりなさい」

ピアノが弾けるというだけで、親戚や学校のクラスメイトから「すごい!」と言われていたものの、

本当は人より少し弾けるくらいで、飛び抜けて上手というわけではなかった私。

それでも、出たくないのにコンクールに何度も出場させられ、終わるたびに結果を責められました。

最初は楽しくて始めたピアノ。

弾ける曲が増えるのが純粋にうれしくて大好きだったはずなのに、いつの間にか楽しめなくなっていました。

いっしょに習っていた弟には才能があったため、弟と比べられることも苦しかったです。

現在、弟はプロのミュージシャンとして活動しているのですが、時折

「お姉ちゃんがピアノを楽しそうに弾いていたから、俺も頑張れた」

「今の俺がいるのは、お姉ちゃんのおかげだ」

と話してくれることが、少し救いになっています。

母に認めてもらいたくて始めた中学受験

小学校5年生のとき、母のひと言で中学受験をすることが決まりました。

テストでいつも100点を取っていたくらいなので、勉強に対して「イヤだなあ」と感じることもなく、最初はそれほど苦に思いませんでした。

でも、中学受験の勉強は思っていたよりもずっと難しく、今までのように簡単にはいかなかったのです。

それでも、塾の友達や先生と一緒に勉強するのは楽しくて、必死に食らいついていきました。

ただ、母は違いました。

母の思うように点数が取れないと、私を責めることが増えたんです。

「なんでこんな問題ができないの?」

「塾に行かせてるのに、もっと頑張らないと」

母にほめてもらいたくて、喜んでもらいたくて、私はもっともっと勉強しました。

そんなある日、突然、塾を辞めることになりました。

父の仕事がうまくいかなくなり、収入が減ったのだそうです。

理由は理解できても、納得はできませんでした。

大好きだった塾。楽しかった勉強。頑張り続けた日々。

何の前触れもなく、それがすべて終わってしまいました。

母からは「高校受験こそ頑張るように」と言われ、地元の総合進学塾に移ることになりました。

それでも、「どうして?」という気持ちは、ずっと消えませんでした。

幼いころは、頑張ることが楽しかった。

努力すればほめてもらえて、それが自分の自信になっていました。

でも、小学校を卒業する頃にはもう違っていました。

私は「自分のため」ではなく、「母の期待を裏切らないため」に頑張っていたのです。

母の顔色をうかがいながら、「もっと頑張らなきゃ!」と自分を追い込む毎日。

これが、私の中に「優等生でいなければいけない」という意識が生まれたきっかけでした。

「優等生」の仮面をかぶった中学時代

少女マンガが大好きだった私。

制服を着て、ちょっと大人びた雰囲気で送る学校生活……。

憧れのヒロインたちのような中学生になるのを心待ちにしていました。

他の小学校から来たクラスメイトも多かったこともあり、

せっかくなら、頑張る自分を見てもらいたい!

と、そんな気持ちで迎えた初めての中間テスト。

精一杯努力した結果、全科目で学年トップを取ることができました。

先生や友達にほめられ、とても誇らしい気持ちになったのを覚えています。

でも、その喜びは長く続きませんでした。

周りから「優等生」として見られるようになり、成績を落とすのが怖くなったのです。

一度手に入れた評価を手放すのが嫌で、次のテストも、その次のテストも、必死に頑張りました。

「勉強ができる子」でい続けないと、誰にも認めてもらえないような気がしていたんです。

本当は内向的な性格でしたが、もっと自分の存在を知ってほしくて委員長にも立候補しました。

すると、「真面目」「しっかり者」と言われるようになり、そのイメージを崩せなくなってしまいました。

高得点をとっても、母からは「塾に行かせているんだから、いい点を取って当たり前」という評価。

もっと認めてほしい、ほめてほしい……と思う気持ちを抑えて、期待を裏切らないように努力するしかありませんでした。

そんな日々が続くうちに、気づけば自分の中では

優等生でいなければ

という思いが当たり前に。

高校選びも「自分が行きたい学校」ではなく、「母をがっかりさせないために偏差値の高い学校へ行くこと」が最優先。

頑張ることが苦しくても、それをやめる勇気はなかったのです。

そんな無理を続けたせいか、中学3年生の春、ストレスでアトピーが爆発的に発症!

しかも、私のアトピーは顔に症状が出るタイプです。

年頃の女子ですし、誰が見てもわかる症状で「あいつどうした?」と思われるのはつらかったのですが、学校を休むことはできませんでした。

内申点を下げるわけにはいかないし、「優等生の私」を崩してしまったら、誰にも認めてもらえなくなる気がしたからです。

本当は楽をしたかったし、少しくらい手を抜きたかった。

でも、それを周囲に知られたら、自分の存在価値がなくなってしまうのではないかと思っていたんです。

頑張ればほめてもらえる。期待に応えれば認めてもらえる。

そう信じて努力を続けていました。

でも、それは本当に「自分のため」だったのでしょうか。

誰かの期待に応えることばかり考えていた私は、「本当の自分」がどこにいるのかわからなくなっていました。

脱・優等生!自由を手に入れたはずなのに…

有名大学の附属高校への進学を決めた私。

一定の成績を取っていれば大学進学は保証されるというありがたい環境で、

もう必死に勉強しなくてもいい……!

そう思うと肩の力が一気に抜けていくのを感じました。

これまでの反動で、勉強は最低限に。

部活に全力を注いだ3年間でした。

中学時代の「優等生」の私はここにはいない!

知っている人が誰もいない場所で、新しい自分になれる気がしていたのです。

一方で、高校入学と同時に、母ががんを患っていることが発覚。

治療へ意識が向くようになったのか、今までのような勉強への口出しはほとんどなくなりました。

そのおかげで、私はさらに「自由」を満喫するように!

制服はルーズソックスにミニスカ、バーバリーのマフラーという当時流行りの着こなしをして、放課後はプリクラにカラオケ。

周りの顔色を気にせず過ごせるのが、こんなに楽しいなんて知りませんでした。

でも、その自由は「家の外だけのもの」だったのです。

私が買う服、髪型、よく聴くアーティスト……好きなものはすべて母に否定されていました。

「そんなの似合わない」

「くだらない」

「また余計なことにお金を使ってるの?」

友達とどんなに楽しく過ごしても、家に帰れば「好き」を押し殺さなければなりませんでした。

母は相変わらず父の悪口を言い続け、両親の会話はほとんどない日々。

そんな家の空気が息苦しく、早くここを出たいと強く思うようになっていきました。

好きなものを否定され続けるうちに、私は

「自分の好きって、誰かに認められないものなのかもしれない」

と思うように。

何を選ぶにも、誰かの反応を気にしてしまう。

自分が本当にやりたいことも、どう決めればいいのか分からなくなっていました。

自由を手に入れたはずなのに、心はまだ縛られたままだったんです。

やりたいことがなかった私が、初めて自分の進路を決めた日

大学生活は特にこれといった目標もなく、なんとなく過ごしていました。

学部も「ここでいいかな」という程度で決め、勉強は最低限。

アルバイトに明け暮れる日々でした。

アルバイト先に選んだのは個別指導塾の講師

ただ時給が高いというだけで深く考えずに始めた仕事でしたが、意外と楽しくて。

気づけば長く続けていました。

一方で、実家にいる時間はできるだけ減らしていました。

母の口出しを避けたかったし、何より「早く自立しなきゃ」という気持ちが強かったからです。

そのためにも有名企業に就職するのがいちばんだと思い、みんなが知っているような大手企業ばかり受けました。

でも、結果は散々。

どの企業の面接でも、なぜ働きたいのか聞かれるたびに言葉に詰まってしまいました。

その会社で、というか自分が本当にやりたいことなんて、考えたこともなかったのです。

そんなとき、就活サイトでたまたま見つけたのが「1泊2日の企業説明会」。

なんとなく面白そうだと思い、参加してみました。

企業の担当者や、同じように就活に悩む学生とじっくり話しながら、自分が大学生活の中でいちばん楽しかったことを思い出していました。

それは、塾講師のバイトで生徒に勉強を教える時間。

伝えることが好き。誰かの力になれることがうれしかったんです。

その瞬間、幼い頃の自分の声が聞こえた気がしました。

「わたし、大きくなったら先生になる!」

ずっと心の奥にしまいこんでいた「先生になりたい」という夢。

中学、高校と母の期待に応えることばかり考えていた私はすっかり忘れてしまっていたけれど、

本当にやりたいことは最初からずっとそこにあったのです。

気づいた瞬間、迷いは消えました。

教育業界に絞って就活を始めると、今まで苦戦していたのが嘘のように、たった1ヶ月で複数の内定をもらうことができました。

春からは学習塾の教師になった私。

これは、人生で初めて「自分で決めた」進路でした。

やりたいことが見つかったら、迷わずまっすぐ走れる。

その経験が、自分にとっての大きな自信になりました。

自分のために生きるって、こういうことだったんだ

社会人になってからの私は、毎日仕事に追われていました。

学習塾での勤務は、授業以外にも営業や事務の仕事も多く、朝から晩まで忙しく過ごしていました。

それに加えて、母はがんの治療を続けており、入退院を繰り返す日々。

私は出勤前に病院へ寄り、母の世話をするのが当たり前になっていました。

さよならも言えなかった父と、最期まで母のために生きた私

そんな日々のなかで届いた、突然の父の訃報。

実は両親は私が大学生のときに離婚しており、それ以来父とはほとんど会っていませんでした。

母から父への悪口をずっと聞かされていた影響で、父のことを「母を傷つけた悪い人」と思い込んでおり、父と会うたびに冷たい態度をとっていた私。

本当は大好きだったのに、素直になれないまま、父はこの世を去ってしまったのです。

葬儀の日、父の同僚から聞いた言葉が胸に突き刺さりました。

「お父さん、娘さんのこと、いつも自慢してたよ。」

それを聞いた瞬間、涙が止まりませんでした。

私は父を拒絶し続けたけれど、父はずっと私を愛してくれていた。

なのに、一度も「ありがとう」と言えなかったことが悔しくてたまりませんでした。

父の死を母に伝えると、母は予想外にも号泣。

がんのステージが進行しており脳への転移も見つかっていた母は、自分の最期が近づいていることを感じていたのでしょう。

「私がいなくなっても、お父さんがいるから大丈夫だと思ってたのに……」とつぶやいていました。

母は最後まで私にだけは素直になりませんでした。

薬の影響か、思うようにいかない苛立ちがすべて私にぶつけられる毎日。

さまざまな暴言を吐かれましたが、いちばん堪えたのは「役立たず」と言われたことでした。

子どもの頃からずっと母のために頑張ってきたのに、私は母の期待に応えられなかったのだろうか……。

やり場のない気持ちを抑えて看病を続けるも、父が亡くなったわずか3週間後、母もこの世を去りました。

心の中に、ぽっかりと穴があいたような感覚。

悲しみと、そしてどこか「もう我慢しなくていいんだ」という気持ちが入り混じっていました。

はじめて知った!好きなものを選ぶ自由

両親が亡くなり、私は実家を出て、念願だった一人暮らしを始めました。

とはいえ、それまで「好きなものを選ぶ」という経験がなかった私は、憧れはあってもどんな部屋にしたいのかすらわからない状態。

部屋のインテリアは母が決めていたので、自分で考えたこともありませんでした。

そんなとき、本屋で何気なく手に取った一冊のインテリア雑誌。

そのページをめくった瞬間、衝撃が走りました。

部屋って、自分の好きに作っていいんだ!

それまで、私の「好き」は母に否定されるものでした。

でも、雑誌に載っていた人たちは、どの人もみんな家具や雑貨で自分の個性を自由に表現していたのです。

私もやってみたい!もっと知りたい!

そう思った私は、雑誌を隅々まで読み込み、インテリアの魅力にどんどん引き込まれていきました。

両親が亡くなり、悲しみがなかったわけではありません。

でも、その一方で、私はどこかほっとしていました。

もう何も我慢しなくていい。何を選んでもいい。

やっと、本当の意味で「自分の人生」が始まった気がしました。

転妻はつみん誕生!結婚・出産の先でやっと見つけた「好き」

楽しく働いていた学習塾ですが、夫との結婚を機に退職することに。

塾の仕事は夜がメインのため、生活リズムや体力を考えると、結婚後も続けるのは難しいと思ったのです。

何か新しい仕事を…と思いましたが、夫は転勤族

「外に働きに出るのはちょっと待って」

と言われ、約1年後、予想通り転勤が決まりました。

結婚、転勤…働きたくても働けないもどかしさ

新しい土地で仕事を探すも、面接では

「新婚さんということは、近々お子さんも考えていますよね?」

と言われ続け、なかなか採用されず。

やっと始めたレジのパートも、やりがいを感じられず、気を遣うばかりの毎日でした。

このままでいいのかな……とモヤモヤする日々。

そんな中、妊娠が判明。そしてまた転勤。

専業主婦生活がはじまりました。

孤独な子育てと、世界を広げてくれたインスタ

ママ友ができても、みんな正社員で育休明けには仕事復帰。

仕事のない私だけが取り残されたような気持ちで、誰とも話さない日々が続いていました。

そんなとき、何気なく始めたインスタが、私の世界を変えてくれたんです。

ベランダで育てていた植物を写真に撮り、投稿してみると「いいね」やコメントがつく。

たったそれだけなのに、「誰かが私を見てくれている」と思うと、心がふっと軽くなりました。

しだいにインスタを通じてやりとりする人が増え、オフ会やイベントに参加するように。

孤独だった毎日が、少しずつカラフルに変わっていく感覚がありました。

転勤しない?じゃあ、引っ越し!

夫の転勤辞令が出ないこと数年。

自分が転妻だということをすっかり忘れていた私は、子どもが幼稚園に入るタイミングで久しぶりに外で働くことに。

久々の仕事は不安だったけれど、「ママ」ではなく「個人」として扱われるのが、ただただうれしかったです。

やがてトレーナーに昇格し、人を育てる仕事にやりがいを感じるようになりました。

そんな中、夫の会社の借り上げ住宅の期限が迫り、転勤ではなく引っ越しを決断。

悩んだ末、ずっと憧れていた「団地暮らし」を選びました。

築古物件に住みたかった私と、いつ出るかわからない辞令に備えて住居費を抑えたい夫。

お互いの意見がピタッと合い、納得の決断になりました。

「私の好き」が、私の居場所になった

引っ越した部屋では、インテリアを思いきり楽しみました。

せっかくだからと、新しくインテリア専用のインスタアカウントをスタート。

当時はまだ「インスタ運用」という言葉すらなかったけれど、「どうしたらたくさんの人に見てもらえるかな?」と試行錯誤するのが楽しく、すっかり夢中になっていました。

気づけば、以前からやっていたアカウントと合わせて1万人以上のフォロワーが!

たくさんのいいねをもらうたび、うれしくて前向きな気持ちが湧きあがります。

インスタ経由で雑誌掲載やテレビ出演の依頼をいただくことも。

自分の好きなことを発信するだけで、こんなにも世界が広がるなんて!

この頃は暮らしのすべてがうまくいき、充実感にあふれていました。

「好き」が見つかり、同じ趣味を持つ人とつながることで、認めてもらえる喜びを感じていました。

さらに仕事でも、やりたいポジションにつくことができ、充実した毎日。

結婚・出産・転勤で揺れ続けた日々でしたが、その先に、自分だけの「好きなこと」が待っていました。

転勤、コロナ禍、そして「なにもない」日々

夫の勤務先の事業所がコロナの影響で閉鎖されることになり、必然的に転勤が決まりました。

何年ぶりかの引っ越しに、最初は少しワクワクしていたのを覚えています。

でも、その気持ちはすぐに消えてしまいました

新しい家は、古くも新しくもない、いわゆる普通の賃貸住宅。

築古の部屋に馴染むインテリアを楽しんできた私にとって、ここはどうにも「しっくりこない」空間でした。

ベランダも狭く、ガーデニングも思うようにできない。

大好きだった趣味が制限されると、インスタでの発信も自然と減っていきました。

そして、何よりつらかったのは、突然職場を離れなければならなくなったこと。

仕事は忙しかったけれど、「私」として必要とされる場所でした。

自分のスキルが誰かの役に立つ、そんな実感を持てる貴重な時間だったのに、それが一瞬でなくなってしまったのです。

コロナ禍で学校行事もほとんどなく、新しい知り合いもできない。

子どもは少しずつ手がかからなくなり、自分の時間が増えているはずなのに、何をすればいいのかわからない。

いつ出るかわからない辞令のことを考えると、新しく働きに出る勇気も持てませんでした。

働こうと思えばできる。

でもまた辞めるかもしれない…そう思うと、動き出せなかったんです。

「また、誰かの都合に合わせて生きているだけなのかもしれない。」

幼い頃は、親の期待に応えるために「自分の気持ち」を押し殺していました。

今は、転勤族の妻として「環境に合わせること」ばかり考えています。

形は違っても、また私は「自分で決める」ことなく、流されるように生きている……。

気づけばこの転勤によって、私が大切にしていたものがすべてなくなっていました。

在宅ワークへの挑戦

ある日、インスタで「転勤族」と検索したとき、同じ境遇の人が在宅ワークをしているのを見つけました。

「家で働く? 本当にそんなことができるの?」

働くなら外に出るのが当たり前。

ずっとそう思っていた私は、「家にいながらお金を稼ぐ」ということに正直違和感しかありませんでした。

怪しい仕事なんじゃないか……とも疑いました。

でも、場所を選ばずに働けるというのは、引っ越しのたびに仕事をあきらめてきた私にとって理想的な働き方です。

調べれば調べるほど、「もしかして私にもできるかも?」とワクワクした気持ちが湧いてきました。

スキルは何もなかったけれど、文章を書くことは好きだった。

学習塾で国語を教えていた経験もあり、「難しいことをわかりやすく伝えるのは得意かもしれない」と、思い切ってWebライターに挑戦することに。

最初にクラウドワークスで見つけたのは、1記事300円、初心者OKの案件。

10記事納品して、初めての収入は3000円でした。

決して大きな金額ではなかったけれど、家から出ずに「自分の力でお金を稼げた」ことが、ただただうれしかったんです。

少しずつ案件を増やし、収入も順調に伸びていきました。

でも、10万円を超えたあたりで、どう頑張ってもそれ以上稼げなくなってしまったんです。

調べて書くことはできても、それだけでは限界がある。

他のスキルがなければ、これ以上の成長はない。

このままでは、ただの「誰にでも替えがきくライター」になってしまうかもしれない……。

もっと自分にしかできない仕事がしたい!

そう思ったとき、「マーケティングを学ばなければ」と強く感じました。

ただ書くだけではなく、「読まれる文章」「価値のある文章」 を書けるようになりたい。

このまま収入の頭打ちで終わるわけにはいかない!

ここから、私の新たな挑戦が始まりました。

これからのこと

在宅ワークを始めたことで、私は「家にいながら働く」という新しい選択肢を手に入れました。

もう、転勤のたびに仕事を辞める必要はない。

もう、夫の収入だけに頼って遠慮しながら生活することもない。

「自分の力で稼ぐ」 という経験は、これまで自分で決めることを避けてきた私にとって、大きな一歩でした。

でも、まだ道の途中。

今まで続けてきたライターの仕事にマーケティングを組み合わせて、さらに価値のある文章を書けるようになりたいと思っています。

そして、1年以内に月収30万円を達成する!

これが、今の私の目標です。

  • 転勤族でも、辞令に振り回されず、自分の好きなインテリアに囲まれたおうちで働く
  • 家族はもちろん、自分の人生も大切にできる働き方をつくる!
  • 「転勤妻だから働けない」そんな思い込みを手放して、もっと自由に
  • これからは誰かの都合に合わせるのではなく、自分の人生を自分で決める

このブログでは、その過程をリアルに発信していきます。

私と同じ「転妻」さんや、新しいことをはじめたいけれど「40代」という年齢でためらっている方にこそ、ぜひ見ていてほしいと思っています。

よろしければ、また私のあゆみを見にきてくださいね。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました!